恵光寺は蓮如上人が河内御布教の際、当地萱振にお立寄りになり、
その後上人第6男蓮淳法師によって開かれた一家寺院である。
現在は浄土真宗本願寺派に属する。
明治時代には別格寺として、また100ヶ寺以上の末寺を擁した

 
初 代 ― 蓮淳 (信華院)
1479(文明11)12月30日得度。1550年(天文19)8月1日87歳寂。
久宝寺御坊・顕証寺長島願証寺(平尾御坊…)開基(兼任)。
蓮如上人六男。 室―民部卿教国女。
 
2 世 ― 実慧
願証寺住。蓮淳法師二男。1536(天文5)5月4日寂。
蓮如上人孫。 室―下市御坊・願行寺勝慧娘。
 
3 世 ― 慶超
1538(天文7)11月16日得度。1572(元亀3)9月4日寂(47歳)。蓮淳孫。
願証寺2世実慧三男。 室―賢心姪(金沢本龍寺賢勝娘)。
 
4 世 ― 良慧
1564(永禄7)4月2日得度。1580(天正8)9月26日寂(27歳)。
慶超甥(願証寺証慧二男)。 室―慶超娘。
 
5 世 ― 良超
1597(慶長2)恵光寺再興の業を終える(19歳)。
1635(寛永12)7月21日寂(57歳)。良慧長男。 
 
6 世 ― 准良 (昭隆院)
1630(寛永7)8月8日6歳で得度入寺。
本願寺(西)12代准如上人八男。 室―良超娘。
 
7 世―寂永 (明浄院)
1685(貞享2)准良と東派、平野御坊・慧光寺を開く。
准良二男。 准如上人孫。
 
 
  
恵光寺懸所(別院・輪番制)となる。
  乗念寺―長安寺―覚林寺―宝樹寺―乗念寺(再任)―大雄寺―心鏡寺
  
 
 
8 世 ― 本覚 (超証院)
江戸末、赤穂・永應寺より入寺。大谷本廟・特別区画に墓石在り。
本如上人甥。1855年(安政2)8月寂。
 
9世 ― 広円 (荘厳院)
本覚長男。本堂腐朽する。桑名御坊・法盛寺へ隠退。
1880年(明治13)4月寂。弟広勝、法盛寺住職。
 
10 世 ― 峯旭 (芙蓉院) 
1902(明治35)2月8日明如上人の命を受け八尾木ノ本・光蓮寺より入寺。
伽藍の修理・修復に努め、恵光寺再興の行を成す。
以後、恵光寺は姓を「近松」より「本多」に改姓。
峯定― 峯旭義弟。昭和7年47歳寂。 室―今井御坊・称念寺
 
11 世 ― 淳信 (實相院)
峯定長男。スカウト活動始まる。1976(昭和51)6月本堂焼失。
昭和54年本堂落慶。平成13年8月寂。 妻(妙子)―京都光瀬寺。
 
12 世 ― 至成
広島市・善法寺出身。
本願寺派司教。相愛大学名誉教授。 妻(真理)―京都光瀬寺。
 

13 世 ― 真成
京都にて出生。国際文化学博士。
弟至善、副住職。
 
 
 
恵光寺建立
恵光寺(えこうじ)は、蓮如上人の河内布教をご縁とし、蓮淳法師(蓮如上人第6男)によって建立された寺院である。建立説には、1470年(文明2年)、1469〜89年(文明年間)、1496年(明応5年)の3説があげられている。(1470年を一応の建立説としている)

河内一向一揆と恵光寺
織田信長と本願寺との戦端がひらかれたのは、1570年(元亀1)のことであるが、それから5年経過した1574年(天正2)6月、大坂石山本願寺攻めが始まる。この時、萱振の一向衆徒(門徒)も石山本願寺方に加勢し、石山本願寺からの撤退を拒否したため、1580年(天正8)8月萱振恵光寺に火を放ち、恵光寺は破壊された。そしてついに石山本願寺は炎上する(同年8月)。当院は河内一円の一向衆徒を指揮して兵糧を集めて本願寺に忠誠を尽くしたのである。特に恵光寺の第四世良慧法師は1580(天正8)9月26日、藤ノ森において戦死している(27歳)。

東西分裂
恵光寺第七世寂永法師の時分、恵光寺は存続の転機をむかえる。1685年(貞享2)、諸々の事情あって(一説には久宝寺御坊顕証寺寂淳との宝物争いによる)、寂永法師は前住職 准良法師と共に東派に転じ、摂津国平野郡来春寺を改め大徳山慧光寺と号した。またこのとき、ほとんどの寺宝が平野に渡る。 無住寺院となった萱振御坊恵光寺であるが、その後懸所(別院)となる。

明如上人ご巡化
1880年(明治13)本願寺明如上人が御巡化する。光蓮寺住職に入寺の命を受けるが、副住職待僧峯旭法師が明治35年入寺する。また1911年(明治44)別格寺となる。

本堂焼失・落慶
昭和51年6月23日の昼時、恵光寺本堂が320年の歴史に幕を閉じた。屋根裏からの出火により全焼したのである。この時、御本尊は当時の住職(11代淳信法師)により担ぎ出され難を逃れたが、「親鸞聖人真向きの御影」、「聖徳太子六歳御像」、「蓮如上人御影」などが灰塵に帰した。 本堂再建に際しては勝如上人よりご消息を賜り、有縁の方々の多大なご協力により昭和54年、勝如上人ご親修による落慶法要が修された。 (左の写真は前本堂)